Carl Schuricht / カール・シューリヒト

Carl Schuricht / カール・シューリヒト
Biography

カール・アドルフ・シューリヒト(Carl Adolph Schuricht, 1880年7月3日 – 1967年1月7日)は、ドイツの指揮者。

Carl Schuricht / カール・シューリヒトの特徴とレパートリー

シューリヒトはバッハからマーラー、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、ディーリアスまでレパートリーが広いが、特にモーツァルトやブルックナー、ベートーヴェン、ブラームスの交響曲の演奏が知られている。若い時代の一時期を除くとオペラの指揮はほとんどなく、同時代の指揮者としては例外的に歌劇場との関係も薄いが、そのことに関しては彼自身も遺憾であったと述懐している。

シューリヒトはかなり高齢になってから世界的名声を得た人であり、特に晩年はリウマチの悪化により、杖をつきながらかなり長い時間をかけて指揮台に登場した。しかしひとたび指揮台に上がると、年齢を全く感じさせない輝かしい生命力が、彼の指揮姿からもその音楽からも湧き出て、聴く者に(そしてオーケストラの楽員にも)大きな感銘を与えた。

シューリヒトの演奏スタイルは、基本的にテンポが非常に速く、リズムは鋭く冴えており、響きは生命力に満ち、かつ透明度の高いものであった。彼の楽譜の読みはどの指揮者よりも個性的で、ある時はザッハリヒに厳しく響かせたり、ある時はテンポを動かしながらロマンティックに歌わせるなど、決して一筋縄ではいかない意外性があったが、音楽全体は確信と明晰さにあふれていた。また、同じ曲でも決して毎回同じようには指揮せず、演奏するたびに新鮮な感動と発見を聴き手に与えたという。

Carl Schuricht / カール・シューリヒトの生い立ちと活動

ダンツィヒ生まれ。父親カール・コンラート・シューリヒトは代々受け継がれてきたオルガン製作者であったが、息子カールが生まれる3週間前に、ダンツィヒの海岸で溺れた雇い人を助けようとして命を落とした。カールは母親がオラトリオ歌手であったこともあり、幼少から音楽に囲まれた環境に育った。

1901年からマインツ市立歌劇場のコレペティトール(声楽練習の伴奏者)を務め、音楽家のキャリアをスタートさせる。1902年からはベルリン音楽高等学院に入学する。1912年から1944年まで長くヴィースバーデン市の音楽総監督の地位にあった。

1944年にエルネスト・アンセルメの求めに応じて、スイス・ロマンド管弦楽団に客演した際に、スイスに亡命し、そのまま終戦を迎えた。また戦前戦後を通じてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(戦前にはポリドールに多数のSP録音を行う)などのヨーロッパ各地のオーケストラに客演した。

1956年、ウィーン・フィルと米国演奏旅行を行う。12のコンサートを開き、大成功を収めた。2年後の1958年には、ウィーン・フィルと大規模なヨーロッパツアーを行った。

1957年にラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団に、タングルウッド音楽祭でボストン交響楽団に客演する。1963年には渡英し、ロンドン交響楽団を指揮した。

1965年にザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮したのが最後の演奏会となり、1967年1月7日にスイスで死去した。86歳没。

Carl Schuricht / カール・シューリヒトとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との関係

1955年3月の初顔合わせのとき、だらけたウィーン・フィルの演奏態度に腹を立てたシューリヒトは、ブルックナーの交響曲第9番を情熱的に指揮して、見事にオーケストラを立ち直らせた。こうしたことがあって、口さがないウィーン・フィルの楽団員もシューリヒトには一目置いて、「偉大な老紳士」と称して特別に敬愛していたという。

モーツァルトの生誕200年にあたる1956年1月27日に、ウィーン・フィルの初の米国演奏旅行に同行するはずだったエーリッヒ・クライバーがチューリッヒで急逝した。ウィーン・フィルは米国演奏旅行の首席指揮者として、前日にザルツブルクのモーツァルテウム大ホールで成功を収めたシューリヒトを選出する(副指揮者はアンドレ・クリュイタンス)。このツアーから、シューリヒトとウィーン・フィルの蜜月が始まった。以後、ヨーロッパ公演やムジークフェラインでの演奏会、シュテファン大聖堂での演奏会(モーツァルト「レクイエム」)など、両者の黄金時代が続いた。