Evgeny Mravinsky / エフゲニー・ムラヴィンスキー

Evgeny Mravinsky / エフゲニー・ムラヴィンスキー
Biography

エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー(エヴゲーニイ・アレクサーンドロヴィチ・ムラヴィーンスキイ;ロシア語:Евгений Александрович Мравинский, イヴギェーニイ・アリクサーンダラヴィチュ・ムラヴィーンスキイ;ラテン文字転写の例:Evgeny Aleksandrovich Mravinsky、1903年6月4日 – 1988年1月19日)は、ロシアの指揮者。20世紀におけるソ連・ロシア・東側諸国指揮界の第一人者、世界でも有数の指揮者の一人に挙げられる。

ムラヴィンスキーは、長身痩躯で舞台栄えして、厳しい楽曲解釈と相まって聴衆を酔わすことが出来るカリスマ性の持ち主であった。また指揮の技術にも非常に優れており、晩年には指揮棒を使わず、手の繊細な動きと視線によってオーケストラをコントロールする姿がリハーサルの映像等で見ることが出来る。

Evgeny Mravinsky / エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー の略歴

1903年 – 帝政期サンクトペテルブルクにて、非常に高い地位を有する貴族で法律家の父と、歌手であり音楽に対し造詣の深い母との間に誕生。また、父方の伯母も有名な歌手であった。
1909年 – 6歳の時からピアノを学びはじめる。
1917年 – ロシア革命により一家は財産を没収され、アパート一室の雑居生活を強いられる。
1920年 – ペトログラード大学に入学し、生物学を専攻する。同年に父親が亡くなる(父親はこのアパート一室の生活に耐えられず、心労のあまり倒れた)。生活費捻出のためにマリインスキー劇場のパントマイムの端役を務める。
1924年 – レニングラード音楽院に入り直し、作曲と指揮を学ぶ。指揮法をアレクサンドル・ガウクとニコライ・マルコに学んだ。
1931年 – レニングラード音楽院を卒業。マリインスキー劇場(当時の名称はレニングラード・バレエ・アカデミー・オペラ劇場)で指揮者デビューを果たし、以後1938年までこの職にとどまる。また、初めてレニングラード・フィルハーモニー交響楽団に招待され指揮をする。
1934年 – レニングラード・フィルハーモニー交響楽団で定期的な客演を開始する。
1937年 – ショスタコーヴィチの第5交響曲を初演する。
1938年 – 全ソ指揮者コンクールに優勝。このときの審査員に「彼は我々の文化の中で最高の天才のひとり」と賞される。この優勝により、すぐにレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者に就任。以後、50年間にわたってこの地位に君臨する。
1946年 – スターリン賞受賞。
1954年 – 人民芸術家の称号を授与される。
1961年 – レーニン賞受賞。後にレーニン勲章も受章した。
1973年 – 社会主義労働英雄の称号を授与される。
1973年 初来日。以後1975年、1977年、1979年と合計4回の来日を果たす。
1988年 – レニングラードにて死去。

レニングラード・フィルの常任指揮者として

1938年にムラヴィンスキーはレニングラード・フィルの常任指揮者に就任、士気が低迷していたオーケストラの立て直しに着手する。透明な音色と凝集度、微妙で繊細なニュアンスと重厚で雄大なクライマックスとを併せ持つ洗練された孤高の演奏は、就任当初の録音を聴いても、金管の音色を除けばロシアのオーケストラであることが連想できないほどである。晩年に至るまでの演奏様式の基本は就任当時既に確立されていたことが窺えるが、楽曲に対する解釈は年代と時期に従い常に変化と発展に富んでおり、晩年になるにつれて深度と表現の自由度とが増し、よりアカデミックになり、音色もより乾いたものになっていったと言うことができる。
1941年の独ソ戦開戦後、オーケストラとともにシベリアのノヴォシビルスクに疎開したが、その間も慰問演奏などで膨大な回数の指揮を精力的にこなしている。
1946年、プラハの春出演という形で外国公演を始める。このときにチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演し、録音も残している。これは、彼にとって生涯唯一となるロシアのオーケストラ以外の共演であった。
西側にまでその名声が及んだのは1956年にモーツァルト生誕200年祭でウィーンを訪れたのがきっかけであった。以後約25年に渡って約30回もの外国公演を行っている。
1960年に一度だけイギリス公演を行っているが、その際にチャイコフスキーの交響曲第4番や、続いてオーストリアに渡り、ウィーン楽友協会ホールで行ったチャイコフスキーの交響曲第5番と第6番(悲愴)が録音されている。また、このとき壇上における威厳のある振る舞いと超絶的パフォーマンス、その長身から「ロシアンクレンペラー」の異名を得る。
1938年から1961年にかけては度々スタジオ録音を行っていたが、それ以降は限られた回数のライブレコーディングが残されている。ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルのコンビはこの時期以降全盛期を迎えた。
1962年に一度だけアメリカ公演を行っているが、録音は行われていない。
1973年からの四度にわたる日本公演を行っている。
1984年4月のショスタコーヴィチ交響曲第12番のライブ録音を最後に、以降本人がすべての録音を拒否。
1987年3月6日のシューベルト未完成交響曲とブラームス交響曲第4番が最後の演奏会となる。

ムラヴィンスキーが常任指揮者在任期間中、レニングラード・フィル以外のオーケストラに客演した例は上記のチェコ・フィル以外にソヴィエト国立交響楽団(現ロシア国立交響楽団)との極稀な共演のみである。